今日のは昨日までの3日間の編集後記みたいなもんですf(^^;
前編・後編・入院編と3日間お付き合いくださりありがとうございました。
本当にあの時看護士さんがいてくれなかったら・・・と思うと彼女には感謝感謝です
それに、母は闘病の折に額の骨を一枚(私も知りませんでしたが額の骨は二重になってるそうです。それで脳をカバーしてるんですね)はがしているので、あの時おでこをぶつけていたら、やっぱり助かってないかもしれません。腫れはしたけど側面だったからこそ助かったんだと思います。
割れたメガネでざっくり切った切り傷でさえ、あとちょっとずれていたら目を傷つけていたに違いないのです。本当に、悪運の強い人です
これこそが、私が以前、初記事の10月01日の記事で「闘病10年を迎えて喜んでいるさなかにまた死にかけよった」と言っていた出来事であり、また母自らが10月27日の記事にて「一人勝手に転落事故だ」と言い切る転落事故の真相です。
そして、「一度癌で死に掛けた自分がまた生き残ったのはナゼだ?!」と母が自分に問いかけるきっかけにもなった出来事です。と大仰に言ってますが、結局は不注意ですからねフォローはできませんよね~。
ま、その問いかけの結果、社会貢献しないでどうするか!ということから、まず癌の闘病記本の出版となりました。名付けてリライフ活動の開始です。
本は初版500部が完売すると増刷という運びになり、そこから印税が発生します。
その印税の何%かを寄付に回したいというのが本人の希望です。雀の涙にしたって、しないよりはましだし意味はあると思います、いや、思いたい。
しかしこれも素人なんで・・・寄付するにはどんな方法があるのかも知らないので調べないと。この件に関してアドバイス等ありましたらよろしくお願いします。
この事故では傷が残ることはありませんでしたが、検査の結果1cmの大きさの脳挫傷を起こしていることがわかりました。ただし、先生のお話では普段使わない脳みその部分なので、気にしなくても平気でしょうとのこと。
普段使わない脳みそ!Σ(゜_゜)
たぶん先生はもっと違う言い方をされていたと思うけど、こんな形で記憶してる私。え?いやいや、まぁまぁ、ね。母本人も「そんなの使ってない方が多いじゃないか」と開き直っておりますが。まぁまぁ、ね。
確かにその後の後遺症らしきものもありませんし、一応退院後一週間は診察に通ったので大丈夫でしょう。、時々言い間違いはするけれども、事故以前もよく間違ってたのでそれが後遺症かどうかよくわかりません。(でもちょっと増えたか・・・?)
昨日リライフ名刺の件で実家に電話していた時のこと。
電話の向こうで実家の犬がワンワン吠え出し(本の表紙で母と共に歩いてる子です。そのうち写真掲載予定)うるさくなりました。
そしたら受話器越しに母がわんこに大声で一喝しているの聞こえました。が!
「こらっレイナ、うるさいでしょ
」
・・・お母様、それは私ではありません。
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どうしようかちょっと考えましたが、この事故の入院編もアップします。
初めてお読みになる方は、コチラとコチラを先にお読みください。続いてます。
・・・11月13日はいわくつきの日なのだった。
~11.13の記憶・番外(入院)編~
九死に一生を得た母は、そのまま品川区内の病院の脳外科に運ばれた。
10年ぶりの患者ライフは、一週間。その間、父と私は交代で見舞いに行きました。
その患者らしくない姿は遠きあの日(癌で国立癌センターに入院してた日々)を思い起こさせ・・・
って全然シリアスじゃない!本当に患者らしくないんだから!
しかも今回は頭打っちゃったとはいえそれ以外は元気で、退屈だ退屈だと喚いていたので、確か記憶力アップのドリルかなんか持って行った気がする(開くと寝ちゃうとか言ってたな)。
ご飯にもいちゃもんつけてた気がするし。「しょうがないよ、10年前みたいに築地市場が近いわけじゃないんだから(当時癌センターは築地にありました)」と言ったら
「だってカレーにお粥だよ?どーやって食べるのよ!」
と憤慨。あ~まぁ・・・(;´▽`A``
カレーにご飯か。確かにナイスなセンスだけど、まだお粥しか食べられないんだからしょーがないじゃないのよ。しかも食べなかったのかと思いきや、憤慨しながら全部食べたらしい。
今回は私の旦那の勤務先も近かったため、彼も十分被害者である。何でも書けるノート、筆記用具、粉シャンプー、スリッパ、パジャマ、食べ物などなど、旦那が運び込んだ物数知れず。すっかり元気になって戻ってきたけど、しばらくは右側が腫れていて、髪で隠せばわからないけどすごい顔だった。(そんでまたそれをみせびらかすのがしばらく流行ってた。そこいらのお化け屋敷よりずっと恐ろしいよ)
(||゚Д゚)ヒィィィ!(゚Д゚||)
今でこそ、冗談で事あるごとに「落ちるよ」とからかっているけど、結構(どころじゃなく)大変だったんですよ。
そして、ちょっとさむくなる話を追加。あの日、11.13は祖父の(もちろん母方の)命日でした。
さらに、運ばれた病院の脳外科は祖父の最後を迎えた場所でもあります。たくさんある病院の中で、あの日たまたま脳外科の当直がいたのが因縁深きあの病院だったなんて。他の病院はベットが空いてなかったり、脳外科医が今日はいないなど、偶然の連鎖が繋がって、父の抵抗も空しく担ぎ込まれてしまいました。
さて、これは呼ばれたのか助けてくれたのか?
判断は皆様に任せます
こんな母ですがよろしくお願いします♪
あっ!そういえば一件訂正!(またか)
前編にて沖から引き上げてくる時間を午後4時としましたが、午後2時です。冬の4時で空が青いわけがありませんねぇ。確認したら2時でした。ごめんなさーい!
これは昨日の記事とつながっていますので、先にコチラをお読みください。
では後編です。
澄み切った冬の青い空。
清清しい空気と穏やかな海の色。
気持ちよさそうな母の寝顔。
・・・ってどう考えてもその体勢はおかしいだろう!?
~11.13の記憶~後編
よくよく見ると、母のかけていた眼鏡が、落ちた衝撃であろうが壊れていて、耳にかける部分がザックリと右目のすぐそばを傷つけていた。さらに落ちた衝撃であろうが頭を打ったようで、これまた右目のすぐそばまで腫れが迫っているではないか
だというのにこの幸せそうな顔は如何したものか。状態と表情の乖離が痛々しい。
この日、母の悪運の強さを物語るのは、たまたま一緒にハゼ釣りに行った友人が看護士だったということだ。不穏な空気を読み取り、私と反対側から母に近づいてくると、てきぱきと応急処置を施してくれた。
その間父はというと、私の異変に気付き近づいてきたものの、通路は狭いため(釣り船の通路というのは、そこに立ったり座ったりして釣りをするので広くない)私が邪魔で母に近寄れず、仕方なしに私を中央デッキに上がる階段に押しやって一言。
「あ、馬鹿っ!」・・・。
そう言いたくなる気持ちはよぉ~くわかるが。わかるが最初の一言が「馬鹿」って・・・f(^^;)私が父に母の所在を聞いたとき、父が前方を指して「ん」と行ったのは、その先にあった船内への扉の先ではなく、その上のデッキのことだったのです。(デッキと言えるほど大きくはないですが)デッキに上がるためのほんの2,3段の階段に母は腰掛ていたようでした。
とにかく本人の意識がないというヤバヤバな状態でしたので、看護士さんの指示で、父がずっと喋りかけていました。(多分この先の10年分くらい喋りかけたと思う)で、楽しかったムードが一変して張り詰めた救急救命病棟になり、動転した船のドライバーさん(ていうのか?)が速度を上げて釣り船をジェットスキーに変身させ、救急車も船着場に呼んでおいてもらうよう手配して、私たちは船着場を目指した。
階段に押し上げられ、上から母の状態を見守るしかできなくなった私は(階段の真下のスペースに母を横たえて応急処置をしているため、下りられなくなった)、事故発生の時間を確認しておくことしかできず、後は看護士さんの手先をずっと見ていた。で、必死の処置と父が話かけた甲斐あって、母が目を覚ました。
上にいる私には聞き取ることは叶わなかったが、ここはどこ、とか言ったらしく、父が説明しているのが聞こえた。しばらくすると、色々理解したらしく、涙声で「ごめんね」と言った。ひとまず一安心。理解した上でケタケタ笑い出したらどうしようかと思ったが正常なようだ。
やきもきしている間に船着場に到着。出航していた船が我等の一隻だったので、もちろん空いてるスペースも一隻分。なのに、ジェットスキーのまま突っ込んでいく。わずかな隙間に高速で突っ込んでいく恐怖!母だけでなく全員が死の恐怖を味わった。
ぎいやあぁ~!
到着すると、すぐ救急隊員さん達がわらわらとやってきて、母を担ぎ出していった。救急車には父が付き添い、私たち(旦那もいたのです)は一度戻って荷物を置いてくることにした。搬入先の病院が決まったら連絡してねと父にお願いして家に戻りました。
後日談で驚いたのは、船の上で喋っていたことを母が覚えていなかったこと。
本人の記憶では、たっぷり遊んで、帰りはデッキの階段に腰掛け、風が気持ちいいなと思ってうとうとしたところまでだそうで、気がついたら病院にいたのだそう。推測するに、うとうとして体がこっくりこっくりするのと、船の振動の素晴らしいシンクロでころりとデッキから落ちてきたに違いない。
どちらにしてもおそろしや。
・・・覚えてないって幸せなことなんだなぁ。私はしばらく、あの光景を忘れられそうもない
ついでに暴露話。救急車の中で隊員さん達が母本人に話しかけたことも覚えてないと言っているが、「名前は?」「ここはどこだかわかりますか?」などには答えていたのに「年齢は?」のみ口を噤んだそうなので、
なんだかすごく意図的なものを感じます
こうして一度目はガンの闘病、二度目は事故からの生還を果たして今回のリライフ活動が始まっていくのです。
お母さんお願いだから「2度あることは3度ある」は、やめてね3度目はン十年後に自然にお願いします
生きて元気な母のために。クリックよろしくお願い致します。
今日の記事はずっと言い続けてきていた『母の一人勝手に転落事故』の真相です。
ライブドアブログ時代に書いておりましたので、もう読まれてる方ももしかしたらいらっしゃるかとは思います。
ちょっといつもと文体が違うのは気にしないでください
これは、今日でなくてはならない理由があるのです!
この事故を起こしたのは、去年の11月13日・・・つまり、今日。
あれからもう一年。本当に時間が経つのは早いものです。
それでは、参りましょう。どうぞ
~11.13の記憶~
去年の11月13日。晴れ。母が落ちた。
忘れもしない、ガタッドタタッゴンッ!!の音。
あの光景は忘れたくても忘れられない、衝撃的な景色。
その日我家は知人と共に天ぷら船に乗り、ハゼ釣りに朝早くからでかけてた。沖へ向かうこと約1時間。けっこうなスピードで走っていたので、船酔い体質の私だが寒くて酔うどころではない。11月の海なんてそれだけで寒いってんだ!
あるポイントで釣りをしだし、午前中母は絶好調で釣りを楽しみ、昼になって贅沢な揚げたて天ぷらに舌鼓
を打っていた。(その間私は何故か絶好調にハゼ
ではなくタコ
を釣り、天ぷらに舌鼓は打ったが船酔いが始まって、食事後しばらく寝てた
)
日が傾き寒さも強くなった午後4時くらいまで釣りを楽しみ、さて帰ろうかと船が移動を始め…。またもやハイスピードのため、船の側面にいた私は風を避けるため船尾へ移動。((((((( ‥)トコトコ
そこには同じく風除け目的で父が座っていた。で、母は?と父にきくと、「ん」と言って指を前に突き出した。そこには船内へ通じるドアがあり、私は「母は中で休んでるんだな」と解釈した。ところが…そうではなかったとわかるのはもう少し先のこと。
元来た海の上を約半分ほど帰ってきたところで、冒頭のガタッ(以下略)が聞こえた。はて?と思って音のする方を見ていたら、魔法瓶が転がってきた。私はその魔法瓶を元の場所に戻し、また船尾で父とお喋り。そしたら2回目のガタッ(以下略)が聞こえてきた。
また魔法瓶かと悠長に腰を上げ、体を左に傾けて船の側面を覗き見た。
・・・いやぁ、空の青さが印象的だったな。
そこにはエクソシストばりに首がひん曲がり、うつぶせなのに顔だけ私の方に向けて頭を下に、足を中央デッキに上がる階段に放り投げてすやすや気持ちよさそうな顔をした魔法瓶・・・ではなく母が、母が転がっていた!
えええーっ!!それでも私は「何やってんのよ」といまいち事態を把握しきれず、のんびりと母に近寄っていきました。が、しかし、間近で見下ろした母の顔は右目の横が腫れ上がり、頭から、ちちちち血が・・・っ!
んぎゃああー!!
・・・明日に続く。(・∀・)
すいません長いので後半は明日ってことでf(^^;)
この事故の結末読みたかったら・・・クリックプリーズ
病気になっても尚明るく生きることの大切さなど、訴えていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。
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